メゾン・ケンポクのちょっと何かはある2021 レビュー ワークショップ「写真を通して過去と未来を考える
~ユージン・スミスの写真集から~」
「いま」「ここに」「在る」写真集
澤渡麻里(茨城県近代美術館 首席学芸員)

2022/03/30 しる

ワークショップといっても、なにかをつくるわけではない。写真史上、最も重要なフォト・ジャーナリストの一人、W. ユージン・スミス(1918-1978)の稀覯写真集をリアルに囲む会、とでもいおうか。当初、「みんなで写真集を見る」ということでワークショップが成立するのか、と思わないではなかったが、なにしろ「もの」が「もの」である。1960年代に日立製作所が、当時既に世界的な写真家だったユージン・スミスを日立に招聘して作った写真集、しかもいわゆる灰色文献(通常の出版流通ルートにのらない入手困難書籍)と聞けば、そんなものがあったのかと驚く人が大半だろうし、一体どんなものなのかと興味を惹かれる人も少なくないだろう。

2021年秋、ユージン・スミスは話題の人であった。1970年代に水俣病の悲劇を世界に伝えたスミスの取材の日々をジョニー・デップ主演で描いた映画『MINAMATA―ミナマタ―』が、日本で封切られたのである。そして、映画と機を一にしてスミスの評伝(1)が出版され、絶版となっていた写真集『MINAMATA』(2)が復刻されるとともに、彼自身がプリントした作品(オリジナル・プリント)を紹介する展覧会もいくつか開催された。ワークショップが行われたのはちょうど、ユージン・スミスという写真家の生き様が注目され、近年になくその写真が多くの人の目に触れる機会を得ていた時期であった。

(1)石井妙子『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』2021年、文藝春秋。
(2)W. ユージン・スミス、アイリーン・美緒子・スミス『MINAMATA』中尾ハジメ訳、2021年、クレヴィス。

ワークショップではまず、松本美枝子より、地域と連携するプロジェクトであり文化やアートの“研究室”でもある「メゾン・ケンポク」の紹介と自身の活動についての説明があった。そして、スミスと日本の関係や日立製作所のスミス起用についてレクチャーが行われ、2021年に茨城大学と日立製作所による連携プロジェクト(3)によってスミスのきわめて稀少な写真集『Japan…a chapter of image』(日本⋯⋯イメージの1章)が茨城大学に所蔵されたことが語られた。ちなみに、松本は2019年、メゾン・ケンポクで実施している読書会(美術史文献の講読会)をきっかけにスミスが日立で撮影を行っていたことを知ったそうで、それ以降、日立におけるスミスの仕事を再検証しようと、いくつかのプロジェクトを進めてきている。

(3)日立市や茨城県北地域の活性化、持続的発展に貢献するための茨城大学と日立製作所の連携プロジェクト。

松本がレクチャーで、スミスにとって日本での撮影が折に触れて重要な仕事となったと述べた通り、第二次世界大戦中のサイパン、レイテ、沖縄や硫黄島といった激戦地の撮影から、最後の仕事となった水俣のルポルタージュまで、彼は日本と縁の深い写真家である。そしてあまり知られてはいないが、1961年、当時すでに世界的な大企業となっていた日立製作所から海外に向けた企業広報のための撮影を依頼されて来日。当初3ヶ月の予定だったが、結果的には約1年かけて熱心に撮影を行い、プリントは1万枚に及んだ。そして1963年に出版されたのが、145点の写真とスミス自身の文章による79ページのフォト・エッセイ、『Japan…a chapter of image』(日本⋯⋯イメージの1章)である。スミスは日本滞在中、日立と日本各地で取材と研究を重ね、歴史や文化、そして人々を取り巻く環境も含め、全体をとらえながら日立の細部を浮かび上がらせようと努めた。本書の序文に「偏見をして真実たらしめた(I have let truth be the prejudice.)」と記したスミスは、己のまなざしがはらむ偏見や先入観、主観にきわめて自覚的であり、その上で、客観的事実の羅列とは別の方法で物事の本質に迫り、スミスという一写真家にとっての「真実」を語ろうとしたのである。そうして生まれたこの写真集は、濃密ではあるが系統だった性質のものではなく、日立以外のイメージも種々盛り込んだ、日本をめぐる「ある1章」となった。

松本によれば、かつては日立製作所にスミスのオリジナル・プリントがあったが、それらは全て東京都写真美術館に寄贈されたため、現在日立には何も残っていないそうだ。そして、『Japan…a chapter of image』は海外向けに制作・頒布されたいわば私家版的な出版物ということもあって、県内ではこれまで所在が確認できていないという。そういう意味では、日立におけるスミスの業績は忘れ去られたわけではないにせよ、具体的な仕事の痕跡についてはやや寂しい状況である。

日立製作所とスミスの関わりについては、2010年に日立市郷土博物館でスミスの展覧会(4)を企画・開催した大森潤也学芸員の20年にわたる調査・研究にも言及がなされた。『Japan…a chapter of image』と同書に付随する形で作られた住所録『Hitachi Reminder』(日立の思い出)(5)所収の全写真の解題を含む2015、2016年の紀要論文(6)をはじめとするその研究の軌跡については、茨城大学が『Japan…a chapter of image』と『Hitachi Reminder』を購入するに至った経緯とあわせて、E-NEXCOの旅レポートサイト「未知の細道」に掲載されている松本のテキスト「写真家ユージン・スミスが日立にいた2年間と、その道のりを探った20年」に詳しい。まだの方は是非ご一読いただければと思う。

(4)「東京都写真美術館コレクション展 写真家ユージン・スミス―東洋の巨人・日立をとらえた眼―」2010年10月23日-12月5日、日立市郷土博物館。
(5)1962年に第5回大阪国際見本市で配布されたという住所録(アドレス帳)。
(6)大森潤也「ユージン・スミスと日立―ユージン・スミスの日立製作所関連写真について―」『日立市郷土博物館 紀要 9』2015年、大森潤也「ユージン・スミスの日立製作所関連写真について 追補」『日立市郷土博物館 紀要 10』2016年。

2020年2月22日には、松本による茨城県北地域のリサーチプログラム「茨城県北サーチ「なにかが道をやってくる」」の一環として、大森学芸員をゲストにスミスが撮った日立を実際に歩くイベント「ユージン・スミスが撮った日立を眺める」を開催。2021年6月28日には、写真集が茨城大学に収蔵されたのを機に、松本と大森学芸員の講演・解説イベント「発見!ユージン・スミスが撮った1960年代の“ひたち”」がオンラインで実施された。ここで強調しておくべきは、今回のワークショップは映画公開に便乗して打ち上げ花火的に企画されたわけではなく、これまでの長年にわたる調査研究の成果や、いくつかのプロジェクト・イベントから地続きのものであるということだ。「地域」の現状を適切に理解する上で、土地の記憶や文化を丁寧に読み解き、それら「過去」や「現在」を何らかの形でアーカイヴしていくことの重要性については、誰も否定し得ないだろう。そして、地域にまつわるプロジェクトは「続けることが大事」とはよくいわれることだが、長いスパンの蓄積と継続性なくして、地域の現在から将来に向けてのヴィジョンを思い描くことなどは土台不可能な話なのである。

さて、いよいよ、松本の解説とともに「写真集をみんなで見る」段となる。『Japan…a chapter of image』とあわせて、『Hitachi Reminder』も披露された。『Hitachi Reminder』には『Japan…a chapter of image』と同じ写真も収録されているが、『Japan…a chapter of image』が白黒写真のみで構成されているのに対し、『Hitachi Reminder』はカラー写真も含んでおり、コンパクトながら写真集として眺めても十分楽しめる内容である。

『Japan…a chapter of image』を開けて目に入る最初の写真は、おそらく初めて見る誰もが面食らうであろう、子守をしている地元の少年をとらえた素朴な一枚である。これは日立製作所のPR写真集ではなかったのか⋯⋯?松本は、日立のごく普通の人々に向けるまなざしや、写真集の1カット目にこのような写真をセレクトしたことを、スミス「らしい」とコメントした。そして、日立製作所の従業員や、そこかしこに挿入された行商の女性や馬車をひく男性といった市井の人々をはじめ、こいのぼりや神社など日本の風物をとらえた写真も、とても印象的だ。もちろん、日立の工場の風景や、機械や製品を撮った写真のインパクトは抜群である。スミス特有の明暗の作り込み(焼き込み)と重厚な質感表現によって、機能美や人工美の描写を極限まで突き詰めた画面作りは、圧巻としか言い様がない。他方で、日立製作所発祥の球技「パンポン」や社内・市民オケである日立交響楽団、国道6号、かみね公園から撮った市街地といった地元ネタの数々は、多くの参加者にとって心温まるものであっただろう。ある写真を見ていた人が「この中の一人は父かもしれない」と発言して一同どよめく場面もあり、それぞれが遠近様々な距離感で、多角的にスミスの写真を眺めたことと思う。

写真集の閲覧の後は、グループに別れてディスカッションの時間が持たれた。松本は、スミスのこれらの写真を報道写真、芸術作品であると同時に、地域資料、郷土資料と位置付ける。地域文化資源といい換えても良いだろうが、事実を伝える記録、あるいは美的に楽しむ対象というよりも、より広く、地域と共同体を支える土台となり得るものとみなすということだろう。その上で、文化財が存在することによって地域がどれくらい豊かになるかについて考えながら、この写真集でこれから一体どんなことができるか、そして、もしスミスの手によるオリジナル・プリントが茨城にあったら?と「妄想」してみる、というのが話し合いのお題であった。なお、スミスは撮影以上にプリントにこだわった写真家で、明暗や陰影、階調の表現、ディテールの再現など暗室での作業に一切妥協をしなかった。松本は「スミスは撮った後の(暗室での)操作が多くて、作り込み過ぎ」というが、その分、彼のオリジナル・プリントの密度の濃さと情報量たるや、印刷物やモニター越しの画像では到底伝わらない種類のものなのである。そして、フィルム写真は同じネガからであっても同じプリントはほとんどできないという松本の説明を聞けば、写真家本人がその質を吟味し、自らの「作品」として認めたオリジナル・プリントがいかに重要かも納得させられる。

レアな写真集を皆で囲んだ興奮が冷めやらぬ中、生々しい感動を伝える声が聞こえてくる。そして、撮影地のデータベース化、写真のデジタルアーカイヴ化、ユージン・トレイル的なアプリ開発といったイマドキな単語が飛び交い、ミクスド・リアリティで過去の日立の生活を体験する、といったフレーズも聞こえてきて夢を感じた。また、デジタルな情報発信とは全く別の方向の、写真を媒介として発生する物語的な要素を求める声もあった。この日の参加者は、日立製作所関係者をはじめ、行政パーソン、美術関係者、地域振興に携わる人等、かなり多彩な顔ぶれで、文理様々な視点から意見が交わされていた。

最後に、グループごとにディスカッションで出たアイディアをまとめて発表が行われた。スミスのフォト・エッセイ「ピッツバーグ」にちなみ同地と日立をつなぐ(7)、近年の新たな知見を踏まえて改めてスミスの写真展を開催する、撮影地に立つと該当するスミスの写真が見られるようなアプリを開発する、写真に添えられたスミスの文章を現代の視点で講読する、日立駅から日立市郷土博物館に向かう道にスミスの写真にちなんだモニュメントを作る、スミスの写真を前に市民それぞれのナラティヴを引き出す場を設定する、等々⋯⋯。何らかのきっかけさえあれば、実現に向けて動き出しそうなアイディアも少なからず含まれていたように思う。

(7)日立製作所がスミスを招聘したのは、工業都市ピッツバーグをテーマとした仕事の存在が決め手になったといわれている。

社会における写真の役割は、一つには、過去を保存し、現在の状況をとらえなおし、未来につなげることである。参加者から出された多岐にわたるアイディアを聞いていると、『Japan…a chapter of image』が過去、現在、未来の交差点となり、「地域資料」として人々と日立の関係を結びなおし、さらには日立とどこか遠くの場所や人をつなぐ糸口にもなり得るだろうと、確かに思われてくる。そして、もし、スミスの仕事が日立製作所の当初の構想どおり、企業広報に徹したものになっていたら、あるいは、このような広がりを含有するものにはならなかったかもしれない、とも感じた。

以下に長いが、スミスの撮影をサポートした当時の日立製作所社員、天野行造の回顧を見てみよう。

(⋯⋯)日立はスミスに日立製品をしっかり撮ってもらいたいと願ったはずですが、彼のカメラの画角は日立製品よりそのまわりの人間を捉えようとしているんです。(⋯⋯)当時の下請けのそのまた下請けの会社の掃除屋さんが現場の隅で頭に麦わら帽子、手に竹の竿をもって作業を見ている。スミスはこのお爺さんに向けて何度もシャッターを押すんです。(⋯⋯)大型トレーラーの撮影でも彼はトレーラーや発電機だけでなくトレーラーを見る子供たちの方にも目を向けています。
(⋯⋯)本社の宣伝部にしたところで驚いたと思いますね。まさかスミスがカタログ写真を撮るとは思わないにしても企業PRに使えるような作品がでてくることは期待していたと思う。ところが当時の常識として宣伝写真とはかけはなれたプリントがもう山のように仕上がってくるのですからスミスで行こうと決断した宣伝部も驚いたでしょう。やっとでき上がった『日本⋯⋯イメージの一章』にしても「高い金出してなんだ、この写真は」という声がかなりあったと思います。(⋯⋯)嬉しいことにこの取材成果が『ライフ』誌に載ると社内のスミス疑問説はあっけなく吹き飛び本社宣伝部の功績がクローズアップされました。世界の『ライフ』に掲載されたことでスミスへの契約料の何倍もの宣伝効果を日立は手に入れたということです。
(⋯⋯)日立はスミスに何をさせようとしたのか、こと細かにリサーチの手順を踏みスミスの作風を知れば、あのときスミスが日本に来ることはなかったのではないか。スミスは当時の日立が喜ぶような写真を撮るはずはなかった。しかし現実には、スミスは日本に来て嵐のように日立を撮った。「スミスで行こう」、36年前誰かが(乱暴にも)そう決めてゴーサインを出した。その図太さと運の強さが日立らしいと思う(8)

(8)「インタビュー:ユージン・スミスを語る 天野行造」展覧会図録『ユージン・スミスの見た日本』東京都写真美術館、1996年、p.17。

天野がいうところの当時の日立製作所の図太さと運の強さ、そしておそらくは懐の深さが、写真史の1頁にHITACHIの名を刻み込むと同時に、とても企業PR用とは思えない規格外の写真集を世に送り出した。そして、彼らの想定から逸脱した部分こそが、発行から約60年も経った今になってこの写真集の「地域資料」としての価値を拓き、人と人、人と場をつなごうとしている。とりわけ、普通の人々やその生活を撮らずにはいられなかったスミスの写真が内包するそれぞれの物語は、そこから新たなナラティヴが派生する可能性を多分に秘めているといえるだろう。

資料でも作品でも、実体のある「もの」が「いま」「ここに」「在る」とそれだけで、人を引き寄せ、それについて考える人や言葉を紡ぐ人をどんどん増やしていくものだ。「もの」が「在る」ということは、古い記憶や新旧の物語を導き、広がりと奥行きを伴った豊潤な「意味」をもたらすのである。今回のワークショップでは、写真集という「もの」が放つ、資料でありながら作品的な佇まいもある、強靭な存在感とその求心力を目の当たりにした。そして、もしこれが、「いま」「ここにしかない」オリジナル・プリントであったら——「もの」としての存在の鮮烈さが多くの人を惹きつけ、その前で語られる言の葉の川が幾筋にもなって複雑に絡み合う、そんな情景を夢想せずにはいられない。


【澤渡麻里】
首席学芸員/茨城県近代美術館
慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程美学美術史学分野修了(美学修士)。専門は西洋近現代美術史。2002年より茨城県天心記念五浦美術館学芸員、2009年より茨城県近代美術館学芸員。2015-17年は茨城県企画部県北振興課・茨城県北芸術祭実行委員会事務局に勤務。主な展覧会に「耳をすまして―美術と音楽の交差点」(2011)、「笑う美術」(2015)、「6つの個展 2020」(2020)。

(撮影|1,2,3,4,5,8,9,10:吉山裕次郎 6,7:著者)

メゾン・ケンポクのちょっと何かはある2021
となりの戸をたたく


日程:2021年11月19日(金)20日(土)21日(日)23日(火・祝)26日(金)27日(土)28日(日)
会場:メゾン・ケンポク(常陸太田市西一町2326)
主催:茨城県北地域おこし協力隊マネジメント事業
企画:メゾン・ケンポクのチーム
協力:ネットワークKENPOKU、茨城大学(茨大―日立製作所連携プロジェクト)
アートディレクション:高野美緒子
メインビジュアル:松本美枝子

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ワークショップ「写真を通して過去と未来を考える~ユージン・スミスの写真集から~」
日時:2021年11月23日(火・祝)13:00~15:00
講師:松本美枝子(写真家)
定員:15名(要事前予約・先着順)
参加費:1000円
協力:茨城大学(茨大―日立製作所連携プロジェクト)

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